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2012年1月6日金曜日

新古典版 『ファウスト博士』







新古典版 『ファウスト博士』

1 魔法陣


ビロード張りのソファに身を沈め、3人の男たちが酒を飲んでいた。
ロウソクの明かりが埃の積もったテエブルの上でチリカラ揺れている。
書籍が棚やらこれまた埃のかぶった机の上に散乱している。
殺風景を通り越して趣があるといえようか。
三人の話題は魔法陣のことに向かった。
「私の読んだ魔法書には、魔法陣から美しい白馬をだし、それに乗ってドイツの高原やら、フランスのブドウ畑まで、駆ってきた若者の話がのっている」
「なんだ、山師にだまされることになりそうな話だな。エジプトのピラミットから発掘されたというこの酒は、酒精が酢になりかかってる。うまいというより埃を飲んでる気分だ」
「ファウスト博士、本当にエジプトから発掘された酒なのかい?」
「さあ、どうだか。3000年も昔の酒など蒸発しているだろう。アフリカの原始人由来の酒だとか…」
ファウスト博士が答えた。
「それも本当かい?」
「あてずっぽうだ…」
「それより、俺たちも魔法陣を描いてみないか。魔法書のこのページに図版がのっている…」
三人がかりで、真紅の絨毯(これも新品の時の話で、埃と汚れが年月の長さを語っている)に象牙のステッキで魔法陣を描いた。
三人のひとりが呪文の文句を唱え、悪魔を呼び出そうとした。……けれども、なにもおこらなかった。
「僕には無理だった…君がやってみたまえ」
もう一人が呪文を唱えたがやはり無理だった。
「かわりたまえ、わたしがやってみよう」
ファウスト博士が呪文を唱えた。
すると青白い明かりとともに小悪魔が魔法陣の中央から現れた。
「おお?」
「ファウスト博士!本当に怪物が現れたぞ!」
ファウスト博士は小悪魔に命令した。
「地獄の悪魔をここに連れてこい」
小悪魔は答えた。
「地獄の悪魔!?この書斎など火焔と地獄の煙にやられて、旦那がた、お偉い方かもしれませんが、散々な目にあいますぜ!?それにあっしの立場では地獄のつわものの旦那に口をきくなど…」
「それもそうだ」ファウスト博士がいった。
それを聞いて、二人の男たちは泡を喰った。
「ファウスト博士、やめろ!悪魔を封じ込める術など、いちいち書物をめくらなくてはわからないのだぞ!?」
「私は少し心得がある。それではお前の主(あるじ)を呼んで来い」
緑色の蛙のようなイボだらけの小柄な怪物は、これまた蛙のような飛び出た目玉をギョロつかせ、こういった。
「あっしの親玉は、地獄のデーモンなんかにくらべりゃ、おとなしいお方でしょうが、悪知恵が冴えてまして…それでよければここにつれてきやすが!?」
ファウスト博士はほかの二人に訊いた。
「どうする二人とも!?とりあえずこの建物が火炎で焼け落ちることはなさそうだが?」
ほかの二人は冷や汗をかきながらも、賛成した。
「だがまて、ファウスト博士!?魔法の道具と呪文を準備しとく」



2 メフィストフェレス


「エジプトの魔法使いがつかっていたという杖だ」
「それがあれば守備は万全かい?」
「なにしろ4000年も昔の道具らしい…」
ファウスト博士がいった。
「しぃぃ。二人とも…くるぞ」
さっきの緑色の小悪魔とその隣に、黒ずくめの衣装を着た悪魔がたっていた。
「はじめまして、メフイィストフェレスと申します。さっそく魔法陣からだしていただきたいのですが?」
ファウスト博士はいった。
「なら、賢者の石をみせてみろ」
悪魔は答えた。
「賢者の石!?そんな代物は魔王の城を滅ぼすいきおいでないと手に入るわけがありません。私やあなた方3人の魔法力ではどうあっても手に入ることはないでしょう…」
「それなら、この錬金術書の第6巻をもってこい」
「それなら、私が地獄の同胞がもっているものを書き写してきましょう」
三人の一人がいう。
「それなら、この羊皮紙とインクをわたす。それでどうだ!?」
メフィストフェレスが答えた。
「そんな紙切れでは地獄の火焔で焼けつきてしまいます。地獄の息吹で焦げない紙を用意していただかないと」
三人の一人がまたいった。
「それなら、地獄でいちばんの美女をつれてきて見せろ!」
「あなた方が地獄に落ちて、本人にあった方がはるかに早いでしょう。亡者を人間の世界に連れ戻すには、地獄の番犬ケルベロスと争う必要があります」
ファウスト博士がいった。
「蠅の悪魔、ベルゼブブの姿だけでいいから映し出して見せろ」
メフィストフェレスはおちつきはらっていった。
「それなら、可能でございます。しかし、お代は?契約を先に済ませませんと…」
ファウスト博士は答えた。
「三人のうちの一人の魂と交換だ」
「よろしいでしょう」
見るのも醜悪な悪魔の姿が映し出された。
昆虫の化け物だが、よく見てみると、おぞましいのは化け物がはっする熱風だった。地獄で何かやりとりしている様が映し出され……
「もういい、もうよせ!」
耐えかねた一人が怒鳴った。
メフィストフェレスはこう言い残し消えていった
「この次来るときお前たちのうちの一人の魂はわたしのものだ。アハハハハハ」


3 契約の晩


その夜は嵐だった。破風がガタガタいい。雨が窓に叩きつくようにふり、滝のように伝い落ちた。
三人はロウソクの明かりのもと酒を飲みながら相談していた。
「土耳古(トルコ)の葡萄酒だ」そういって、ファウスト博士は仲間の一人に酒を注いだ。
「うまいな。それでどうするんだファウスト博士?。今夜があの悪魔が来る日だ」
ファウスト博士はいった。
「契約に上乗せして、仕事をさせる。わたしの魂も追加して…」
もう一人は煙草をふかしながら、エジプトの杖をさすっていた。
「あの魔法陣は消そうとしても消えなかった…」
不意に雷が鳴り、青白い煙とともにメフィストフェレスが現れた。
「約束どうり、魂をいただきにきた。それで誰の魂をいただけるので?」
三人はソファでグラスを眺めたり、煙草をくゆらせたりして、無言でいた。
悪魔はつれの緑色の小悪魔をつついた。
小悪魔は三人に火の玉を吐き出した。
エジプトの魔法のつえと火の玉がぶつかり火の粉が飛び散った。
三人の一人が煙草を吸ったまま返事をした。
「一人ではなく三人分の魂で契約する。だからもうひと働きしてくれ」
悪魔はニヤリと笑うとこういった。
「いいだろう。しかし、地獄はこのあいだみたとおり、生ぬるい世界じゃないぜ。ずいぶんはったりを噛まして落ち着いてるみたいだが…この間はめっぽう怖がってたじゃないか?」
緑色の小悪魔も眠そうな顔で口を開いた。「これでも親切でいってるんですがね、旦那方」
ファウスト博士が口を開いた。
「紳士的じゃないな。悪魔が契約が終わる前に…魔法陣からでる許可を与えよう。グラスを持ちたまえ、土耳古の酒だ…」
悪魔がグラスを持ち、ファウスト博士は酒を注いだ…そのとたん!酒が火を噴きたちまち消えてしまった。ニヤニヤ笑いながら悪魔はいった。
「はったりにしても上出来だ。それで最後の望みは?」
「私達三人が地獄の中でむこう40年間自由でいさせろ」
悪魔はしばらくの間、難しい顔をして考えていたが、「よし、それなら地獄へつれていってやる」といった。
そのとたん、地獄の火焔が辺りを包んだ。三人はもうもうたる煙にまかれて気を失いかけたが、骸骨の馬がひく馬車に乗せられ、運ばれていった。





4 ゲヘナ


荒れ野に倒れていた三人は気がつくと辺りを見回した。
「ここは…」
上の方から声がした。
「ゲヘナだ…」
見上げると、鎧を着たミイラの巨人が槍をもち立っていた。三つ目だが、空洞で眼球ははるか昔に消失したらしかった。
「これを食べろ…死者の食べるパンだ…」
ファウスト博士は答えた。
「いらん。”働きたくないものはパンを食べるな”と新約聖書の『テサロニケへの手紙』にも書いてある。おおかた、労働をせず飲み食いしたい亡者の食物だろう」
ふと、あたりに、死者のパンと腐ったミルクをガツガツ食べ漁る亡者が見えたような気がした…。
巨人のミイラはこうもいった。
「ゲヘナの奥深くに行きたければ、あの行列についてゆけ」
みると、ミイラの戦士が隊列をつくり行進している。
三人は隊列の最後に並んで歩きだした。
長い時間がたったような、また、一瞬だったような気がした。
気がつくと自分たちだけで歩いていた。
洞窟があり、真っ暗だった。
真の闇がそこにあり、すすり泣く声が聞こえてきた。
さすがに三人も怖じ気づき、エジプト人の魔法のつえをかざし呪文を唱えた。ロウソクほどの明かりが灯り、安堵のため息が聞こえた。
同時にすすり泣く声は水滴が池に落ちる音だったときがついた。
抜けると枯れ木の森だった。葉っぱが一枚もなく、さもしい感じが延々と続いていた。
「あれは…私の実の妹を殺した男だ!」
その男のあまりに過酷な責苦に、さすがの恨みもかき消えた……どころか、恐ろしさの余り震えるくらいだった。
「どうだ!?お前があれほど憎んだ男の今の姿は…」
声がはるか上空でこだました。
震える三人にまた声がした。
「どうした?許してやるのか…あまりのおそろしさに地獄から逃げ出したくなったな!?だが、まだだ、歩け!あと少しだ…」

5 結び


荒野を歩いて行くと巨大な竜が群れている。草を食べているように見えるが、もしかしたら自分たちも喰われるのかもしれなかった。
そのあまりの巨大さにこちらには気がつかないようだが、もし気がついたら…?という思いが恐怖を増大化させた。
神経質になりながら巨竜のあいだを抜けゆく。
気がつくと巨竜の群れははるか後ろになっていた。
安心して脂汗をぬぐうと、都合のよいことに小屋があった。
三人は中に入り休むことにした。
樽があり、空かと思ったが、幸運にも酒が入っていた。
「飲めるのか?」
「欠けて埃まみれのグラスだが一杯やろう」
「暖炉のまきに火を起こせ」
三人はつかの間の休息を楽しんだ。
と、窓の外を見ると、巨大なギョロ目がこっちをにらんでいる。
ファウスト博士が呪文をとなえると聖なる竜巻がおこり目玉を切り刻んだ。一つ目の巨人が怒りにまかせて足で踏みつけようとしたとき、メフィストフェレスの魔力でみた映像のベルゼブブがあらわれた。
その巨大さは一つ目の巨人をつまんで、ひとのみにするほどで、おぞましさはあの映像の比ではなかった。
三人は震えあがり「地獄から出してくれ!頼む」と叫んだ。
気がつくと三人の酒瓶の転がる書斎で、メフィストフェレスがニヤついている。
「なんだ、もうお終いか?あれほど威勢がよかったじゃないか…」
三人のうち一人がいった。
「貴様…!!」
ファウスト博士が制した。
メフィストフェレスは落ち着き払って(魔法陣の中で)いった。
「君たちの魂など地獄にいらない…頼まれなくても地獄は人が次々やってきて、誰かに連れて行ってほしいくらいだ。むしろ追い出すのが悪魔の仕事というわけさ」

お終い

メシド氏の揺り椅子



メシド氏の揺り椅子





1

メシド氏は帳簿をやっとつけ終え、机のランプを吹き消すと、仕事部屋から暖炉のある小部屋に向かった。寒い廊下をスリッパをつっかけて歩き、ガウンをはおりなおし、ドアを開けた。
暖炉にはまきが赤々と燃え、暖かい室内にホッとすると、棚からシェリー酒の瓶をとりだし、コップに注いで一杯やりだした。
もう初老の域にはいるが、最近はめっきり疲れがひどく。まるで一日中走り回っていたかのような肉体疲労が抜けなくなっていた。若い時には少しは体が頑丈なつもりでいたが、力仕事をしているわけでもないのに、疲労しているのは頭ではなく体の方だった。
自分の人生、老い先が限られていると直感していたが、氏はもう満足していた。
暖炉の温かさと、パチパチいう、まきの焼ける音に、トローンとしていると、コツ・コツとドアがノックされ、アラビア風のちょび髭の使用人が、銀の皿に夜食を載せて入ってきた。
夜食であるチーズのサラダをフォークでつついて、シェリー酒をつぎ足し、飲んでいると、日々の疲れのせいか、歳のせいか揺り椅子に根が生えたように深く沈んでいく体を感じていた。
メシド氏は若いころ結婚したが、妻は井戸水が肌に合わず、体を壊して病院でなくなった。子供もおらず、もし娘などいたら、どこに嫁にやろうか、一番いいとこじゃ贅沢だ。二番か三番くらいがちょうどいい…なにしろわしの娘だ。粗相があるに違いないからな……などと夢想にふけっていた。
夢の中でメシド氏は雪山で倒れていた。もう満足していたため悔いはなかった。救助犬が遠くから走ってきてメシド氏に吠えた。氏は救助犬の首から下げてるブランデーの瓶を取り出すと口にした。口から胃袋に酒が沁みてゆき、体が火照る。


2
気がつくと夜中だった。「あいつめ、なぜわしを起こさなかったんだ。ベッドに行くか。やや、奴はもう先に寝たのか…」メシド氏は重い体を揺り椅子からおこし、寝室に向かった。暖炉の火はおきになっていた…。
次の日の昼下がり、休日のメシド氏はパイプをスパスパふかしながら、新聞を機嫌よく読んでいた。窓の外は雪が積もっているがいい陽気で、コーヒーを飲みたくなったメシド氏は呼び鈴を鳴らした。
揺り椅子に揺られながらパイプをくゆらせていると、ちょび髭で小太りの使用人が無表情ではいってきた。コーヒーを注文すると、理解したのかわからないしぐさでひっこんでいった。
新聞記事には特に変わったことがのっておらず、テーブルの上の絵本を手に取った。『マッチ売りの少女』。
孫娘でもいたら、喜ぶだろうと、この間のでさきの仕事帰り、夜店の本売り屋から買ってきた。
氏はこの童話を子どものとき読んだとき、マッチ売りの少女こそ、真の勝利者だとおもったことがある。マッチをするだけでいろいろなものを呼びだせるくだり、特殊な超能力を手に入れたような気分で読んでいた。さらに街のだれより先に天国に入れるのは完全勝利であり、他の人はいまだ天国への許可書を得ていない。そう解釈していた。大人になり、あれはかわいそうな恵まれない女の子の話なのかもしれないと認識が変わった。
孫娘など、このお話をどう解釈するだろうと、メシド氏はクスクス笑いながら絵本を閉じた。
ドアが開き、使用人が入ってきた。コーヒーのカップ以外に、チーズケーキの皿ももってきた。このへん意外と気がきくのか、要領を得てないせいなのかいまだに不可解だった。
「ここにおいておきます」
揺り椅子のそばのテーブルに置き使用人はさがった。
クリスマスの夜などメシド氏はニコニコ顔でよろこんで雪道に倒れているだろうと空想した。道行く人はどこかの店のサンタクロースの置物が倒れているくらいにしか思わず、意外と次の日の朝、倒れているところを警官が発見し、「こりゃ凍死してるな、当局に連絡をしろ!」などと騒ぎになり、氏がいつも読んでいる新聞に小さくのるのかもしれないなどとニヤニヤ考えていた。
ケーキを食べ終わったころ、ドアがまた開き使用人が、今度はアスパラガスの塩コショウ炒めの皿をもってきた。
(どういうつもりなんだろう?)
氏は首をかしげたが、食べることにした。


3

万年筆工場の工場長から、報告を聞いてメシド氏は「ありがとう。そのとおりやってください。工場に足を運ばなくて申し訳ないが、この歳だとおっくうになりましてな」と激励して彼を返した。
工場に足を運ぶのは23ヶ月に一度ほどになっていた。
氏がそのまま、仕事部屋で営業日誌に書き込みをしていると、使用人が婦人の客が見えたといってきた。
「誰だ?心当たりがないが」
「ミセス・マッセンという方です」
「ミセス・マッセン?」
中に通すと、メシド氏は紅茶をもってこさせた。
「わたしに御用とは?ミセス・マッセン」
「私どもの祖父は財をなし、私の夫はその相続人ですが、夫は不幸にして長くは生きられないと医者に宣告を受けております……話が長くなって恐縮ですが、男の人に心労をかけすぎた女性は決してその妻になることはありません。捨てられるか、あるいは娘のような目線で見られることになります。妻は夫の支えになるものであって、決して心労をかけるべき存在ではないからです。逆に父親が天塩にかけた娘はよい結婚をするでしょう」
メシド氏は紅茶をもう一杯つぎ足し、頭をかいていった。本当はパイプもふかしたくなってきた。
「なるほど、しかし、娘も妻もおらんわしに話されてもなあ?ミセス・マッセンあなた、私の万年筆工場に用事があるのじゃないですか」
ミセス・マッセンは紅茶を一口飲み、答えた。
「おっしゃるとおり、夫の人生は限られてますが、最後の望みは…子供のとき確かにみた万年筆と同じものが欲しいということでした。幻のような気もするが、デザインははっきり覚えていて、絵をかけると」
「なるほどなあ、それで、あなたうちの工場に…」
メシド氏は、考え込んで首をかしげていたが、気がつくとパイプをふかしていた。新しいことをやることは若い時は熱心だった。しかし、へたりこんだ今では決まり切った作業こなすのが精いっぱいだった。まして博打を打つような年でなくなってきたのを感じた。決まり切った事務仕事をこなし、工場長と相談し、工場を視察し……今では慣れ切った仕事をこなせば、あとはうまい酒が飲めた。まだ、今より若いころは休日でも休む気がせず、せかせかと工場や帳簿や従業員やら、取引先の小売店に挨拶やら、走り回ったが、今では休日以外でも、のんびりして苦痛なく過ごせる。揺り椅子に揺られて新聞を読んだり、果物をたべたり、お茶や酒や……



4
メシド氏はパイプをくわえながら揺り椅子でくつろいでいた。
辛口のジンをなめながら、例の使用人が今日は何をするのだろうか?などと想像しながらゆったりしていた。
この間の婦人のことはすっかり忘れて気にしていなかった。
今日はなかなか使用人がドアを叩かないので、考え事がながつづきしたが、そのとき、ふと思い出した。
ミセス・マッセンか……親父が死んで悲しむ娘ならいるだろうが、夫が死んで本当に悲しい妻などいるのだろうか?もし自分が雪山でたおれ、そして凍死したら……そして娘や妻がいたら葬式のとき弔って悲しんでくれるだろうか?クスクス笑いながら、氏はジンを飲んだ。
そのとき使用人が来た。持ってきたのは何かの貝のバター焼きだった。
「これはなんていう貝なんだい?」
「ご主人さまの知らない貝でございます」
どういうつもりなんだろう?氏は首をかしげたがそれ以上追及する気になれなかった。
食べてみると塩味とバターの油がしみて、おいしく、熱いうちに全部食べた。


5
仕事はもう習慣になった事務仕事だけでいい。
そう考えていたが、その日は、なにやら今の自分にしては気のとられる仕事が多かった。
のんびり仕事を片付けるつもりが、(習慣になった今なら要領を心得ていた)あたふたと時間が過ぎ、気がつくと夕食の時間で、夕食をとりながら、ミセス・マッセンのことを考えていた。
時間をとって思案したわけではないが、腹の中でメシド氏はもう決めていた。ミセス・マッセンの依頼を引き受け、今度たずねてくる来週の水曜、話をしよう。以来どおり、そちらのデザインした万年筆をつくる。ただし、一本だけ作るとコストがかかるので1万本つくらせてもらう。1万本をすべて納品してもらうが、それをどうするかは、マッセン婦人しだいだ。なんなら、業者にたのんで小売店にさばいてもらうこともできる。売れるか売れないかは氏は関心を持たないが、ミセス・マッセンが知人用のギフトとする道もあるのではないか?
夕食後、揺り椅子にこしかけ、氏は古い書物をめくっていた。

『プラトン著 饗宴』

グラスにウィスキィで、ときどき口にしながら、ページをめくる。
何の事が書いてあるのか、さっぱりよくわからないが、氏はそのわからなさが面白いと感じていた。
酔いがまわり…本を閉じ、テーブルに置いた。
煙草をふかしたくなり、パイプに火をつけた。
氏は自分が死んだら天国に行けるだろうかと考えだした。雪山で…ひとり…。
メシド氏はまだ若い頃のことを思い出した。



6
金のなかったメシド氏はふところの最後の銭(ぜに)を酒につぎこみ、夜道を歩いていた。酔いが足りなかった。飲み屋街の外れに来ていたが、夜の闇に三日月が浮かんでいたのを覚えている。
雪がチラホラするほど寒い夜で、氏はこれは凍え死ぬか、金が降ってくるかのどちらかだなと考えていた。
屋根の落ちた廃屋というか民家の跡地に、焚き火をしながら酒を飲んでいる連中がいた。物騒ななりの連中だった。メシド氏は酔いが軽かった。酔いが軽いくらいの方が無鉄砲になるのがメシド氏だったが、酒と喰いもんほしさにその連中のなかに加わった。
ソーセージを串にさし、角材をもやしている焚き火であぶり喰っている。
「ひとつやろう」
氏は空腹に空酒だったのでがっついて喰った。
酒もコップに注がれた。ブランデーかなにかだった。
いい気分で酔っ払いソーセージをほおばり、辺りは寒いが、角材がごうごう燃えてる。
と、そのとき口をふさがれた女性が別の男に連れられてきた。
目に涙を浮かべてメシド氏をみたが、次の瞬間、ガンッ!と拳銃の音がして、女性はたおれた。心臓を貫かれていた。黒い夜空と三日月に知らない女性の死と、わけがわからなくなりそうだったが、気がつくと連中と取引をしていた。
金欲しさに女性の死体を林の奥に埋め、このことを口にしないと約束をした。


7

若きメシド氏は死体を林の奥に捨て、ガタガタ寒さと恐怖に震えながら廃屋に戻った。火はまだ焚かれていたが、人影はなかった。屋根の崩れた建物で、火に、あたりに落ちてる角材を仰山ほうりこみ、ごうごうと燃やすと、シーツにくるまってそのまま寝た。
次の日、雪はふってなく、晴れていたが、火にあたり体をあたため、昨日手にした金でなにをしようか考えた。
これが若い時のメシド氏のできごとだった。

氏は暖炉の火をかきまわすと、イスに座りなおし、グラスを傾けた。

水曜日、ミセス・マッセンがやってきた。
使用人が無表情でそのことをつげると、氏は「中に通して」と手短にいった。婦人は「ええ、ではそのように。お金はもちろん用意できます」層言って帰っていった。
氏は机に向い、工場長に簡単ないきさつの手紙を書いた。そして近いうちにたずねてきてくれ。詳細を話すからと書き、封をした。ちょび髭を呼ぶと郵便局に届けてくれと手紙を渡した。



8

新しい万年筆は完成した。ミセス・マッセンも喜んだ。事業はつつがなく終了した。
クリスマス・イブの晩、メシド氏はワインを飲みながら、いつものように揺り椅子に揺られていた。
「ジャックと豆の木」あれは、ジャックの母さんはジャックに冷たかった。豆の木の上の世界の巨人の妻なのか、雲の上のおばさんはジャックを逃がしたり、なぜか協力的だ。巨人からまきあげて、ジャックに金貨をくばる。
ジャックの母は夫がいないから、まき上げる相手がいないから…。
メシド氏は夢想していた。
女性はそういうところがある。強いものからかっぱらって弱いものに配る。母性本能なのかな?
いや、雲の上のおばさんは、巨人にいばられている。金貨をやる代わりに自分があるじになりたいのかもしれないな。
ジャックの母さんは食えない。だからあるじを求める。巨人の奥さんは好きなだけ食える。しかし、今度は自分があるじになりたいと考える。
男性に負担をかけすぎると夫ではなく娘になり別の男性の嫁になりにいく……ミセス・マッセンの言葉を思い出した。童話でも巨人の奥さんなのか、さらわれた王女なのかはっきりしないな。巨人じゃなくてドラゴンだったら、まず間違いなくさらわれたプリンセスだ。
クスクス笑いながらメシド氏はワインを飲んで、眠くなってきたのを感じた。眠ってしまうのが名残惜しかった。
調理房ではちょび髭の使用人がチキンをローストしていた。
最後にメシド氏は拳銃で殺された女を思い出していた。
あの世に行ったら会えるかな……?
家庭を大事にする主婦(かあさん)なら殿様にかみついてもおいそれと処刑されたりはしない。いくら悪人でもあの連中は、やけにためらいもなくあの女を殺した。それを考えると、あの女もやはりろくでもない女なのは確かだ。
あの世での顔見知りはあの女くらいか…
使用人がメシド氏にローストチキンを届けに行ったとき、もう間に合わなかった。
メシド氏は揺り椅子にもたれたままこと切れていた……。





おしまい